はじめに
ベトナムで日系企業を運営する管理者の方からよくお聞きする悩みのひとつに、「気がつけば現地スタッフの給与が市場相場よりかなり高くなっていた」というものがあります。年に一度の昇給を続けるうちに、いつの間にか同じポジションの市場相場を大きく超えてしまい、新しく人を採用しようとした際に「同じ職位でこんなに給与差があるのか」と驚く――そんな場面に何度も立ち会ってきました。
特にチーフアカウンタント(Chief Accountant / Kế toán trưởng)をはじめとする経理ポジションは、専門性が高く替えが効きにくいため、この「給与上げすぎ問題」が起きやすい領域です。さらに、ベトナムの労働法(Bộ luật Lao động 2019)には雇用契約の期間や更新回数に関する独特の規定があり、これを把握していないと、本来であれば見直しできたはずのタイミングを逃してしまうことにもなりかねません。
本稿では、ベトナムで給与が上がりすぎてしまう構造的な背景と、雇用契約の期間・回数のルールがどのように関係するのかを整理し、管理者が押さえておくべき実務的な対策をご紹介します。
1. なぜベトナムでは給与が上がりすぎてしまうのか
ベトナムで給与が市場相場を超えて積み上がっていく現象には、いくつかの構造的な理由があると感じています。単発の判断ミスというよりも、慣行と法制度と心理が組み合わさって生じる、いわば「会社が自然にハマってしまう罠」のような側面があります。
物価上昇と昇給期待が前提化している
ベトナムは長年にわたり物価上昇が続いており、毎年の昇給は従業員にとって「もらえるのが当たり前」のものとして定着しています。日系企業でも年1回の昇給を慣行としている拠点が多く、業績や個人評価とは別に、「物価上昇分」として消費者物価指数上昇率を上回る昇給を毎年実施しているケースをよく目にします。
問題は、この昇給が業績や個人パフォーマンスと十分に連動していないため、ある程度の年数が経つと、市場相場とのズレが大きくなってしまうことです。たとえば、入社時に20百万VNDだった経理スタッフが、毎年7%ずつ昇給を続けると、5年後には約28百万VND、10年後には約39百万VNDに到達します。市場では同職位の相場が大きく動かない中、自社内だけが上がり続けるという状況が起きがちです。
「旧正月前に辞められたら困る」心理
旧正月(テト)前後はベトナム人スタッフの転職が最も活発になる時期です。多くの企業が「旧正月前に辞められたら困る」「旧正月ボーナス(13ヶ月目給与)を出した直後に辞められたくない」という心理で、年末や年始に慰留目的の昇給を提示するケースが見られます。
慰留のために提示した昇給が、実は市場相場から見ると割高であった、ということは少なくありません。一度上げた給与は心理的にも法的にも下げにくいため、「とりあえず引き留めるために上げた給与」が、その後何年もベースとして残り続けてしまいます。
一度上げた給与は下げられないという事実
ベトナムの労働法では、給与の引き下げは原則として労働者の同意なしに行うことができません。労働契約に明記された給与額は契約の重要事項とされており、一方的な減額は無効となるリスクがあります。
実務上は、「ボーナスを抑える」といった調整は可能ですが、ベース給与そのものを下げることは極めて困難です。この「上げたら戻せない」という性質が、管理者の昇給判断を慎重にすべき大きな理由となります。
2. 雇用契約の期間・回数の落とし穴
「給与上げすぎ問題」を語るうえで、雇用契約の期間と更新回数のルールは避けて通れません。ベトナムの労働法には、日本にはない独特の規定があり、これが給与水準の見直しタイミングと深く関わってきます。
雇用契約の種類は2つだけ
2019年労働法第20条により、ベトナムの雇用契約は以下の2種類のみとされています。
| 契約種類(日本語) | 契約種類(越語) | 期間 |
| 有期労働契約 | Hợp đồng lao động xác định thời hạn | 最長36ヶ月 |
| 無期労働契約 | Hợp đồng lao động không xác định thời hạn | 期間の定めなし |
※2020年以前にあった「季節労働契約(12ヶ月未満)」は2019年労働法の施行により廃止されました。
有期契約は2回まで、3回目は無期化が義務
ここが多くの日系企業の管理者が見落としがちなポイントです。労働法第20条第2項により、一般のベトナム人従業員については、有期労働契約は「最大2回まで」しか締結できません。最初の有期契約が満了した後、もう一度有期契約を結ぶことは可能ですが、その2回目の契約が満了した際に、なお同じ従業員と雇用関係を継続する場合は、無期労働契約に切り替えなければなりません。
つまり、雇用関係の流れは以下のようになります。
1. 1回目の有期契約(例:12ヶ月)→ 満了
2. 2回目の有期契約(例:24ヶ月)→ 満了
3. 3回目以降は無期労働契約として継続するしかない
この規定の背景には、「期間の定めのある契約を反復することで、労働者の地位を不安定なまま維持する」という雇用慣行を防ぐという立法趣旨があります。日本の労働契約法における「無期転換ルール」(5年ルール)と趣旨は近いものの、ベトナムは「回数」で線引きをするという違いがあり、より早期に無期化が発生しやすい設計になっていると言えます。
無期化されると、解雇のハードルが大きく上がる
無期労働契約に切り替わると、企業側からの解雇は労働法第36条に列挙された事由(労働者の重大な違反、能力不足、健康上の理由など)に該当する場合のみ可能となります。「契約期間が満了したから雇用を終了する」という選択肢が、もう使えなくなるのです。
実務上の影響は次のようなものです。
– パフォーマンスが期待を下回るスタッフでも、簡単には雇用を終了できない
– 給与水準が市場相場を超えてしまっても、契約満了タイミングで全体を見直す機会がなくなる
「2回目の契約満了タイミングを逃す」ということは、給与水準を含めた雇用条件全体を見直す最後のチャンスを失うことを意味します。
私の経験から:気づいた時にはもう遅かったケース
私がご支援してきた日系企業の中にも、入社から5年が経過したベトナム人経理スタッフについて、「いつの間にか無期契約になっており、しかも給与は同職位の市場相場の1.5倍に達していた」というケースがありました。
経緯を整理すると、入社時に1年契約、その後2年契約に更新、さらに2年後にもう一度2年契約を結ぼうとしたところ、人事担当者が「自動的に無期契約になります」と気づいたという流れでした。経営層は「3回目の契約も有期にできる」と思い込んでおり、給与の見直しタイミングとしても認識していなかったのです。
このケースでは、結果的にそのスタッフを継続雇用することになりましたが、後日新しい経理スタッフを採用する際に、「同じ職位なのに、新人の方が給与が低くて、長期勤続者の方が割高」という構造が発生し、社内の給与体系全体を見直さざるを得ない事態となりました。あくまで私が見てきた範囲にはなりますが、この種の問題は数年単位で潜伏してから一気に顕在化する傾向があると感じます。
3. 給与上げすぎを防ぐための実務対策
これまで見てきた構造を踏まえ、管理者が実務で取れる対策をいくつかご紹介します。
給与レンジの設定と市場相場の定期確認
最も基本的な対策は、職位ごとの給与レンジ(最小〜最大)を設定し、年1回は市場相場とのズレを確認することです。ベトナムでは人材紹介会社や調査会社が職位別の給与レポートを発行しているため、これらを参考に自社のレンジを定期的に見直すことをお勧めします。
ベース昇給ではなく、賞与で報いるという運用方法もあります。賞与であれば翌年以降のベースに固定されないため、ベース給与が市場相場を超えて積み上がるリスクを抑えることができます。ただし、変動賞与を法人税上の損金として算入するためには、労働契約書や賃金規程への明記、算出根拠を示す書面の整備が必要となる点には留意が必要です。
もちろん、優秀な従業員に適切な昇給を行うこと自体は重要です。問題は、役割・成果・市場相場との比較がないまま、毎年の慣行としてベース給与だけが積み上がっていくことにあります。
雇用契約の期間と更新タイミングの記録管理
雇用契約の管理は、人事担当者だけでなく、駐在員や経営層も把握しておくべき領域です。少なくとも以下の情報を一元管理することをお勧めします。
– 各スタッフの契約種類(有期/無期)と契約期間
– 1回目・2回目の契約満了日
– 無期化が発生するタイミング
– 過去の昇給履歴と現在の給与水準
特に、2回目の有期契約満了の3〜6ヶ月前には、「このスタッフを継続雇用するか」「給与水準は適切か」「無期化に進むことに納得できるか」を経営判断として議論する場を持つことが重要と考えます。
「無期化前のレビュー」を制度化する
2回目の有期契約満了は、雇用関係を見直せる最後のタイミングです。このタイミングに、以下のような観点でレビューを行うことを制度として組み込むことをお勧めします。
– このスタッフのパフォーマンスは無期化に値するか
– 現在の給与は市場相場と比較して妥当か
– 役割や期待値の見直しが必要か
– 無期化後の昇給ペースをどう設計するか
このレビューを経て無期化に進むのであれば、その後の給与運用についても明確な指針を持って進めることができます。
経理人材の採用・配置を戦略的に考える
経理ポジションに関しては、長期勤続者一人に頼りすぎる体制そのものがリスクとなります。長く在籍しているスタッフほど業務がブラックボックス化しやすく、また給与も積み上がりやすいため、適切なタイミングでの人材入れ替えや組織設計の見直しも検討に値します。
経理・財務人材については、採用市場の相場感と社内給与のバランスを定期的に確認することが重要です。特にチーフアカウンタントやシニア経理人材では、外部市場との比較を行うことで、採用・配置・昇給判断の精度を高めやすくなります。
おわりに
ベトナムでの「給与上げすぎ問題」は、年次昇給の慣行、引き留めのための昇給、そして「上げたら下げられない」という法的制約が組み合わさった、構造的な課題と言えます。さらに、雇用契約の期間と更新回数のルールを把握していないと、給与水準を見直す貴重なタイミングを逃してしまうことにもなりかねません。
本稿が、ベトナムでの人件費管理と雇用契約運用を見直すきっかけになれば幸いです。給与水準と契約の管理は、目の前の引き留めだけでなく、5年後・10年後の組織を見据えて設計することが大切と考えます。
FAQ
Q1. 一度上げた給与をベトナムで下げることは本当に不可能なのでしょうか?
A. 従業員本人の同意があれば理論上は可能ですが、実務的には極めて困難です。労働契約に明記された給与額は契約の重要事項とされており、一方的な減額は無効となるリスクがあります。ボーナスを見直す対応は法令上も実務上も可能ですが、ベース給与そのものの引き下げはほぼ最終手段と考えるべきと感じます。
Q2. 有期契約を3回以上結ぶことはできないのでしょうか?外国人や経営層は別ですか?
A. 一般のベトナム人従業員については、2019年労働法第20条により、3回目以降は無期労働契約に切り替えることが義務付けられています。ただし、外国人従業員については、契約期間が労働許可証の有効期間を超えることはできないという制約があるため、一般のベトナム人従業員とは異なり、労働許可証の取得・更新状況に応じて複数回の有期契約を締結できるとされています。一部の経営役員や特殊な職務についても例外規定がありますが、経理・財務スタッフを含む通常のベトナム人従業員には2回ルールが適用されます。
Q3. 2回目の有期契約が満了する直前にいったん退職させて再入社させれば、契約回数をリセットできますか?
A. 形式的に契約をいったん終了させても、実質的に同じ労働関係が続いていると判断されれば、労働法上の脱法行為とみなされるリスクがあります。労働当局は実態を重視する傾向があり、過去にも同様の手法が労働紛争で否定された事例があります。「契約をリセットする」という発想自体が労働法の趣旨に反するため、推奨できる方法ではないと考えます。







